Cosmy Lab.

物を作るひと、何かを描いて書いて編んで捏ねる人

Dear 大晦日

子供の頃、かなり幼い頃から大晦日が苦手だった。とても。苦手というより嫌い、あるいは恐怖?

夜は怖い。それは死を連想させるからだ。これは人類が(多分)遺伝子に焼きごてで刻印されているくらい、多くの人間が体感している恐怖だと思う。

私も夜が怖い。幼い頃から。そもそも物心がついた時から私は眠るのが苦手な子供だった。家族が寝静まっても一人で目をぱっちりさせていた。母親が私のお腹をとんとん叩いても、父親が抱っこして揺らしてくれても、彼らより先には寝なかった。一人で夜と戦う時間は、やはり恐怖だった。

人は死ぬのだ、いつか必ず。それを知ってからますます夜への恐怖は純度の高い黒色になっていったように思う。多分4歳ごろか。寝ている間に死んでしまったら?隣で寝ている両親が息をしていなかったら?私の不眠は強くなり、小さい頭蓋骨がぱりーんと割れて弾け飛んでしまうのではと本気で心配になるくらい脳みそは恐怖に支配された。

それが、1日を1サイクルとしたときの恐怖の波の話。私は(特に子供の頃)、一年をまた一つの大きな1日と捉えていたので、冬は夜だった。

秋は夕方。実際毎日夕方になると物悲しくてそわそわするのと同じように、秋になると毎日哀しさに耐える必要があった。紅葉を見ては胸がしくしくとし、空の高さを見てはちょっぴり泣いた。

冬になるといよいよだめで(ただし秋から冬の変わり目は別。清々しくてとても好きな一瞬がある)、大晦日に向かってじわじわと黒い恐怖が私を侵食してくる。年末の特別番組のCMが流れるたびに胸がぎゅいっとねじ上げられるし親が進める年越しの準備もトラウマものだった。私が進んでできたのは年賀状の準備だけ。

晦日、それは朝からなんだか体調のすぐれないような1日で、でも謎のハイテンション感で日中はやり過ごすことが出来る。おせちを作ったりあれこれと用事を言い付けられたりしてね。しかし夕食(それは大抵鍋で、フグかカニが入る。ちょっぴり贅沢な晩ご飯だ)の後、私はもう耐え難い気持ちになっている。夕食が楽しかっただけに、余計。

こたつの隅に顔をうずめて、めそめそめそと一人で泣いていると、寝ていると勘違いした母親に風呂の催促をされる。もちろん寝ていないので、泣いていることがバレる。風呂の催促の勢いのまま、母親に詰問口調で聞かれる。「何泣いてるのっ!」

だって淋しい。なんだか哀しい。

私の不明瞭な心情説明は、大晦日が怖くない母親には伝わらない。眠いからぐずっているのだと思われてますます叱られる。抱きついて背中を撫でてほしいくらいなのに突き放されて(年末の忙しさもあってだろう)、私はますます絶望する。

毎日の夜の恐怖の大ボスみたいな大晦日の夜。淋しくて淋しくて、もう死んでしまうんじゃないかと内心半狂乱になる。

布団に入ってもやはり眠れずに最悪の夜なのだけれど、目が覚めて元旦になってしまえば哀しさなんてすっかり置いてきぼりにしてきた顔で元気ににこにこしている。呑気なものだ。

 

いまは昔ほど怖くない。家族全員久しぶりに集まれるし、美味しいものも食べられるし。賑やかだから。

賑やかな空間は好き。

大人になって、美味しい蟹を大晦日用に準備するのは私の役目になった。役割があることも私を安心させる。

1日の波は歳を取るに従って小さくなる。一年の波も少しずつ小さくなる。気持ちが鈍麻することは恐ろしいけれど、今日は人生の終わりじゃないと分かって少しでも穏やかに過ごせるほうがずっといい。