Cosmy Lab.

物を作るひと、何かを描いて書いて編んで捏ねる人

2024年に寄せて

今週のお題「2024年にやりたいこと」

遅ればせながら新年の抱負をば。

さて、今年は私の年齢の十の位が変わる年である。なんとなく心持ちもきりっとするような気がする。なんとなく。

これまでの10年、私はインプットを中心に生活の要素を増やして行ったように思う。勉強をし、仕事を始め、一人で生活できるようになった。

これからの10年、次はこれまで蓄えたものをどんどん使ってアウトプットをしていきたいと思った。制作をし、それを見える形にし、たくさんの人に我が子である作品を見てもらいたい。

その手始めに2024年はアウトプットがどんどんできる生活に舵を切ろうと計画をしている。住んでみたかった土地に住んでみたり、作品を評価してもらえる場に送り出したり、そういったことを。

ふわっとした宣言にはなるけれども、2024年にやりたいのはそういうこと。

箸置きを蒐集

箸置きを集めている。

私の、初めての自分だけの箸置きは大学に入る際、一人暮らしの準備のために百均で買ったガラス製のネズミの箸置きだった。

それ以来約10年、箸置きについて頓着せず、そのたった一つの箸置きだけで生活してきたのだが、最近突然気がついてしまった。「箸置きを集めたい。」

 

私の実家は食器道楽で、色んな理由でそれはもうすごい量の和食器がある。用途が限られているものも多くある。

箸置きも当然それなりの種類があった。お野菜の形、幾何学的な形、丸くてシンプルなの、おめでたい感じの洒落たデザインのもの…。

家族はそれぞれ皆、自分が日常的によく使う箸置きがあって、大抵それを普段使いしているわけだったが、ときどきお正月やなんかには特別の箸置きを出してきたり、季節にちなんだものを使うこともあった。箸置きを変えるのは私にとって日常だけれど小さく心が弾ける瞬間だった。

 

ところで、私はお外で食事をする際も箸置きがなければ困ってしまう。そのままテーブルに箸の先をつけることはできず、かといって渡し箸はいけないというなけなしのマナー意識はあるので、小皿のふちに箸先だけ掛けるか箸袋をなんとなく結んで箸置きを作る。

やっぱり箸置きがないと困っちゃうな、でも私自身は一つしか持ってないな。人が来た時に出してあげられる分もない。気分や料理で変えることもできない。ではこれから集めよう。

そのようにして私の小さな収集の旅が始まる。

 

初めはハウステンボスに行った時。大好きなミッフィーの箸置き。次は東京に行った時の蚤の市で見つけたお茄子の箸置き。またミッフィー展で見つけたガラスの箸置き。地元の駅ビルの雑貨屋さんで見つけた金属製の小さな動物の箸置き。お正月に使いたくて注文して買った(また?)ミッフィーのだるまの箸置き(現在デビュー戦のために共に帰省中)。

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そして最新の箸置きは先日デパートで巡り合ったレオレオニ展で見つけたアクリルの5つセットのスイミーの箸置き。

魚の兄弟たちの絵が5つに区切られていて、アクリルブロックの裏面にプリントされている。表面はマットな加工になっており水面から海の中を覗いているみたいで素敵な気持ちになる。

横から見てみると透明度の高い断面がとても涼しげで、夏にぴったりかもしれないと思う。

いつも2つずつしか買わない箸置きが5つも揃いであるのはなかなかの壮観で、そんなに大人数で食事をすることはないのだけれど、ああ買ってよかったと、事あるごとに取り出してうっとりと眺めてしまう。

小さいのに幸福度の高い集めものだなあ(集めものはそもそも大小に関わらず幸福度の高いものだとは思うけれども)とつくづく思う。

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Dear 大晦日

子供の頃、かなり幼い頃から大晦日が苦手だった。とても。苦手というより嫌い、あるいは恐怖?

夜は怖い。それは死を連想させるからだ。これは人類が(多分)遺伝子に焼きごてで刻印されているくらい、多くの人間が体感している恐怖だと思う。

私も夜が怖い。幼い頃から。そもそも物心がついた時から私は眠るのが苦手な子供だった。家族が寝静まっても一人で目をぱっちりさせていた。母親が私のお腹をとんとん叩いても、父親が抱っこして揺らしてくれても、彼らより先には寝なかった。一人で夜と戦う時間は、やはり恐怖だった。

人は死ぬのだ、いつか必ず。それを知ってからますます夜への恐怖は純度の高い黒色になっていったように思う。多分4歳ごろか。寝ている間に死んでしまったら?隣で寝ている両親が息をしていなかったら?私の不眠は強くなり、小さい頭蓋骨がぱりーんと割れて弾け飛んでしまうのではと本気で心配になるくらい脳みそは恐怖に支配された。

それが、1日を1サイクルとしたときの恐怖の波の話。私は(特に子供の頃)、一年をまた一つの大きな1日と捉えていたので、冬は夜だった。

秋は夕方。実際毎日夕方になると物悲しくてそわそわするのと同じように、秋になると毎日哀しさに耐える必要があった。紅葉を見ては胸がしくしくとし、空の高さを見てはちょっぴり泣いた。

冬になるといよいよだめで(ただし秋から冬の変わり目は別。清々しくてとても好きな一瞬がある)、大晦日に向かってじわじわと黒い恐怖が私を侵食してくる。年末の特別番組のCMが流れるたびに胸がぎゅいっとねじ上げられるし親が進める年越しの準備もトラウマものだった。私が進んでできたのは年賀状の準備だけ。

晦日、それは朝からなんだか体調のすぐれないような1日で、でも謎のハイテンション感で日中はやり過ごすことが出来る。おせちを作ったりあれこれと用事を言い付けられたりしてね。しかし夕食(それは大抵鍋で、フグかカニが入る。ちょっぴり贅沢な晩ご飯だ)の後、私はもう耐え難い気持ちになっている。夕食が楽しかっただけに、余計。

こたつの隅に顔をうずめて、めそめそめそと一人で泣いていると、寝ていると勘違いした母親に風呂の催促をされる。もちろん寝ていないので、泣いていることがバレる。風呂の催促の勢いのまま、母親に詰問口調で聞かれる。「何泣いてるのっ!」

だって淋しい。なんだか哀しい。

私の不明瞭な心情説明は、大晦日が怖くない母親には伝わらない。眠いからぐずっているのだと思われてますます叱られる。抱きついて背中を撫でてほしいくらいなのに突き放されて(年末の忙しさもあってだろう)、私はますます絶望する。

毎日の夜の恐怖の大ボスみたいな大晦日の夜。淋しくて淋しくて、もう死んでしまうんじゃないかと内心半狂乱になる。

布団に入ってもやはり眠れずに最悪の夜なのだけれど、目が覚めて元旦になってしまえば哀しさなんてすっかり置いてきぼりにしてきた顔で元気ににこにこしている。呑気なものだ。

 

いまは昔ほど怖くない。家族全員久しぶりに集まれるし、美味しいものも食べられるし。賑やかだから。

賑やかな空間は好き。

大人になって、美味しい蟹を大晦日用に準備するのは私の役目になった。役割があることも私を安心させる。

1日の波は歳を取るに従って小さくなる。一年の波も少しずつ小さくなる。気持ちが鈍麻することは恐ろしいけれど、今日は人生の終わりじゃないと分かって少しでも穏やかに過ごせるほうがずっといい。

蟹雑炊のかんかん

見かけると冬を感じるもの。

 

霜柱

クリスマスツリー

箱売りのみかん

白い息

かんかんのコーンスープ

 

自販機に並ぶあったか〜い飲み物の中で1人だけ異彩を放つしょっぱいスープ。

冬のひとときだけ出会える特別感と、かじかんだ指先と胃袋を温めてくれる安心感でやっぱりちょっと特別な存在感のコーンスープ。ゆっくり飲みすぎてさいごあたり少し覚めちゃってしょげ、飲み終わりにどうしても数粒とうもろこしが出てきてくれなくてしょげ、名実共にちょっとしょっぱいコーンスープ。

 

しかし(私の知る限り)数年前から、自動販売機に並ぶスープのバリエーションがすこしずつ増えてきたようだ。コンソメスープやバスクスープなどなど。

私はスープが大好きであるから、見かけるとつい買ってしまう。浮気物である自覚を持ちながら。どれも全部美味しくて、「やっぱりコーンスープには敵わない」という趣旨の発言はどうもできない、長年のパートナーであるコーンスープには申し訳ないけれど…。

 

そして今年、私の勤めている会社の自動販売機に初めて見るスープのかんかんを認めた。表題である蟹雑炊のスープと水炊きスープ。どちらもお米入り。

会社のせんぱいが存在を教えてくれてから、私はそわそわと飲むタイミングを見計らっていた。タイミングはなかなか訪れぬ。なぜならここが室内だからである。あったかいスープはあったかいところではなかなか欲しくはならないもののようだ。

でも先日やっと(せんぱいの啓示からたぶん数週間)、お腹すいたので蟹雑炊買ってみた。まごう事なき蟹雑炊の汁。缶から飲んでいる事実に脳がバグる。

一応事前に缶を振って開け、序盤五口ほど飲んだけれど、振りが甘かったのか沈殿が早いのか、米に出会えぬ。最後に辛くなるパターンが見えて早くもしょっぱさに拍車がかかる。

とはいえそうだとしても美味しい。オフィスがもう少し寒ければ文句なしといった感じだけれど、暖房も効いているし人もたくさんいる社内は非常に暑い。より汗をかいてきたな。しかしそれもまた、蟹鍋を食べて温まった後に追い込みで雑炊を食べる感じに近いだろうか。そこも含めて再現度が高い商品ということ!?

 

と思いつつ身体をあったか〜くしながら飲み進め、水位が残り1/3程度になってから大きくぐるぐる回して飲むとようやく米が出てきてくれた。原材料名に焙煎玄米とある通り香ばしいよい匂い。お腹的にも満足感が追加される。

また、コーンよりも粒が小さいからか、懸念したよりは残り方が軽微で助かる仕様。

水炊きも飲まねばね…と思いながら天井を仰いで缶の底をぽんぽこ叩いて米を一粒でも多く口へ送り込んだ。

今北産業の話

今北産業あざまる水産って仲間なのか?

 

検索

 

関係なかった。水産の方は随分若い表現らしい。なるほど。

ところで今北産業について、意味をきちんと理解したのは今年の夏くらいだった。

私は何か作業をする時、さみしいので何か音が欲しくてYouTubeで誰かが喋っている動画を無為に流すことがままある。例えば可愛い女の子がずっと喋り続けてくれるメイクのチュートリアル動画。例えば成人女性がずっと喋り続けてくれる何かしらの購入品紹介。例えば合成音声が喋り続けてくれる2ch スレまとめ。

私は元々2chに住んでいたわけではないのでお作法がよく分からない。知らないネットスラングがいっぱい出てくる。

興味が出てその都度調べてふむふむとしていたのだけれど、今北産業は状況と音によってなんとなく意味がわかりやすいので「今来たよ!」という意味に語呂を合わせて今北産業にしたんだろうなあなどと独自解釈をして特に気に留めていなかった。

しかし複数の動画を見ていると親切な後続の方が3点の箇条書きで簡潔に状況を説明してくれているのを見る。

三行…?

今来たので現状を3行程度で簡単にまとめて教えてくださいって意味…?

点と点の繋がる瞬間、閃きの脳汁、快感が開館。

古の(?)ネットスラングを自らの手で捕獲したような爽快感。そうかいそうかい。

それ以来今北産業は私のお気に入りのネットスラング。いつか書き込んでみたいなあ。

 

読んでくれてあざまる水産〜(ギャルピース)

しろくてつめたいもの

私がここ一年半ほど好きで触っている素材は石粉粘土。
石粉粘土は白くて、初めはややかたい。水を加えて捏ねると、するするとやわらかくなる。形を作っているといっぱい手について、手もちょびっと白くなる。

 

成形して乾燥させるあいだ、私は時々その未完成の作品を待ちきれずに手に取ってしまう。
それは表面がなんともすべらかで柔らかくつるつるとしていて、そして冷たい。表面は触っても何事もないくらいには乾いているのだけれど、奥の方に残っている水分がすこしずつすこしずつ出ていくので、ひんやりしていて、しっとりと重い。
とくに机にくっついていた面はとろっとしたような感触で、静かな午後の部屋、電気を点けないでカーテンの向こうの陽の光を見ている時のような気持ちがする。その感覚が気持ちよくて、何度も何度も触ってしまう。
その部分をなでるときの音は多分「きよきよきよ」が似合っている。すんっと冷たい感じと触るとクリームみたいに滑らかな感じが伝わると思う。
時々、爪なんかで触ってしまって乾きかけのその表面に取り返しのつかない窪みを生み出してしまって後悔するのだけれど…。

 

完全に乾いてしまうとそれは明快にかさっとしていて、そして軽くなったようだ。
濡れているときよりももっともっと明確にまっしろで、凹凸の影が濃く見える。
なんだか何かの骨みたいな、なんとも素直な触り心地で気分がいい。軽くて心許ないのに、しっかりと硬い。
彫刻刀で削ると、さり、かり、しゃり、と耳にくすぐったい音がする。

標本としての

私はおさない時分からなにかを作らずには気が済まず、なにかを読まねば、見ねば、観察せねば気が済まず、取り入れたものでまたなにかを作らずには気が済まなかった。
もう大人になって随分経つけれどもその性分は全くおさまらずにむしろ経験と経済力を得てますます助長されている…。
なのでこれまでそうやって作ってきたものだとか、その時の心の様子だとか、これからやりたいことだとか、そういうものをここに放流して私の意欲をひんやりさせてやるのも手だとおもったのだ。

 

私は比較的(非常に?)物事に心を動かされやすい質であって、素晴らしいものを摂取するとすぐに嬉しくなって飛び跳ねたくなって、そしてなにかを作る。
実際には飛び跳ねないし、そういう動的な心の動きというよりはもっととろっとしたもの…
例えば胸の中の器に少しずつ見聞きしたものがたまっていってそれがついに表面張力を破って溢れ出るような、
或いは静かな凪いだ砂浜に小さな波が寄せては返すのだけど、それがときどきおもいがけないものを運んできて、朝行ってみると何か素敵なものが打ち上げられているような、
そんな時に私はなにかを作る。
そしてそれは結構頻繁にあるので、作るのがのろい私は全然追いつけないのだ。
それでそんなふうに追いつけない時、ここに来て備忘録としてあふれた気持ちの標本や写真みたいなものを記録できたらいいとおもう。